こめろぐ

意味のないコメントのような、日々生成されるログのようなモノ

ゆっくり諦める

久しぶりに自分のブログを見て、前回から随分と時間が過ぎているのに気が付いた。
沢山書きたいこともあったし、何度も文章を打ち込もうと思ってもいざ帰宅してみると薄い霧のようにスゥーっと忘れてしまう。
随分と時間が過ぎた中では、しがないバイトから自身の経歴と年齢からみれば少しばかり待遇のいい正社員へとジョブチェンジを果たしたり、長い付き合いの友人が海外に留学する話が決まっていたりする程度でさして日常は代り映えがなく過ぎている。
この代り映えない日常の中でさえ、よくよく考えると以前より大きく変化している事に気が付いたり、やっぱりさして変わらない事もあると確認したり出来るので過ぎ去る日々は偉大である。僕に多くの考えることとダメージを残してくれるのだから。

さて、今回は僕個人における音楽趣味の変化と、先の話に出てきた留学する友達とそれに追従する人間関係に対する姿勢について書こうと思う。

僕がまだ学生だった頃は、テンポが遅くてピアノが綺麗な悲しい曲とか、ゆっくり語り掛けるような静かな曲、呪詛のように愛を引きずる歌詞の曲、直径三十センチの地球儀を持って旅をする曲みたいな感じの音楽が苦手だった。
どうして、そんな悲しくてテンションの落ちる曲を好き好んで聞かなくちゃいけないのか理解ができなかったのだ。
対照的に馬鹿みたいに明るい曲、鼓舞させられ勇気をもらえるような曲、ひたすらに愛を伝えるような曲が好きだったようで。まるで自分がそんな輝かしく素晴らしい世界に生きてるみたいな気分で聞いてたと思う。
残念ながら今はその気持ちがさっぱり理解できなくなってしまっている。馬鹿みたいに明るくしても楽しくない事のほうが多いし、たとえ勇気をもらって踏み出しても大体報われない。ひたすらに愛を伝えても分かり合えないでほかの男と遊ばれる始末だし。
そんな感じで、頭に様々な思い出がよぎるので全く共感すらできないのだから聞いても楽しめない。
音楽のルーツが共感や思いとか言語化できない何かを伝える事にあるのならば、先に挙げたような明るい曲は今の僕にはあまりに不適切であるといえよう。音楽のルーツかどうか専門家ではないので不適切な表現かもしれないが。
そんな訳で、今の僕は絶賛ゆっくりとした悲しい曲が好きなのだ。
毎日が耐え難いくらい辛いことをごまかさず、辛いととらえてる歌詞が好き。その上で、何とかなるみたいな希望的観測は一切なく只々誰か救ってくれと祈るような歌も好きだ。
自己嫌悪は繰り返して、拗らせ手遅れになってしまった絶望を、現実は残酷で救いや逆転はなく、誰かを助けようが良いことをしても報われない事とか
そういう美化しないそのままの世界が感じ取れる歌詞と歌に最高に共感できる。
そして、そういう曲を聴いて自分の思いを代弁してもらっているような充実感と、"あぁやっぱりな"って諦めて向き合えるから。あとちょっぴり酔える。
音楽の変化は人生の転換期と誰かから聞いたが、僕の場合は上向きの転換ではなく下向きの転換だったと思う。
このような曲をカラオケで歌ったら病んでると言われてしまったが、仮に僕が本当に病んでるとしたらそれはもうどうしたらよいのでしょうかね?
精神が病んでる事を認めたら、僕は自分が正常でないと認めてしまう事になってそれに耐えられる自信がない。ただでさえロクデナシなのだから。 話は大きくそれたかもしれないが、音楽家ではないにしろ、僕にとって音楽は精神と大きく結びついている。

くだらない自分語りが一つ終わったけど、残念ながらまだあと二つもある。
もしこのブログを見つけてここまで読んだ探求心のある人がいるなら応援メッセージだ。残念だったな。まだまだあるぞ。

冒頭のほうで、少し話したが長い付き合いの友人が海外に留学することが決まった。8月末だそうで、残された時間はわずかだ。
たかだか留学と思うことなかれ、向こう2,3年は帰ってこないみたいなので僕としては超大事。友人の彼女は健気に待つそうだ羨ましい末永く幸せに。
なぜ、一人の友人の旅立ちが僕にとって超大事かというと、彼がいなければ昔ながらの友人グループが成立しない可能性があるからだ。
生涯遊び人にとって、これ程の大事があるだろうか?
学生だった頃は、友人グループは活気に溢れ毎日のように夜更かしをしグダグダとしゃべっては野を走り回ったものだが社会人になってからはあっという間に遊ぶ頻度が落ちていきLINEのグループでは発言するものはいなくなった。
喧嘩して遊ばなくなった人(今現在はまれに遊ぶ程度に回復した)も出てきたり音信不通になるやつが複数人現れまともに連絡できなくなったりし、大きく環境は変化して僕はとてもショックだった。
最初は僕も改善しようと、遊びを昔以上に提案したり引っ張ろうと頑張ったが空しくラインの既読が増えるばかりで途中で僕はグループは終わったものだと諦めかけてしまうことがたくさんあった。
しかし、この大きく変わった環境に負けることなく遊びに誘い続けたのが彼だったのだ。
正直、僕がもうこのグループで遊ぶのに諦めたあたりギリギリのタイミングで、皆を集めてイベントを作り楽しい思い出を彼はもたらした。
学生の時、僕に彼が楽しそうな顔でおじいちゃんになっても鬼ごっこがしたいと話してくれたその情熱を今でも維持して信じてるのを心から僕は尊敬し、そのおかげで集まれてた。
その彼が居なくなるのだ。
今の状況では、彼が居なければ集まるのは難しいだろう。
なにより、彼が不在では今のグループで遊ぶ気が起きないのだ。グループの皆は大好きだがそれでも素直に楽しめない気がしている。
純真に楽しさを追及することができなくなった、昔のような連帯感が感じられない。僕だけかもしれないが。
汗にまみれるのを嫌いになっていく、友達といるのが最優先だったあの頃はもう無い。
それぞれがグループに対して抱き求めるモノにズレがある。そんな気がしてならない。だから集めようと呼びかける言葉が出てこない。
なまじ学生の頃が楽しすぎたが故に現状と比較して悲観してしまう。

彼が数年後に帰ってきたとき僕はどんな顔をして話せばよいのだろうか。
僕自身、どのようにしたらいいのか何一つわからない。
ただ一つ思うのが、昔みたいには遊べないし別物なんだな、と。

さぁ、ようやく最後の一つだ。
ここまで見てくれた人よ。くだらない殴り書きでも楽しめただろうか?

音楽趣味が変わり、僕の一番大事な付き合いが消えそうになる中でさらなる変化がある。
人間関係に対する姿勢が、ネガティブになりかけているのだ。
最近は人と会うのが億劫で仕方がない。どこで何しても文句を言われてるきがするし、自分から連絡を取らなければほとんどスマホが通知を告げることもない。
これでも、せめて自分の友人には極めて優しくしてきたつもりだし多くの相談事や助力をした気がする。見返りを求めてやったことではないがここまで人望がないとかなりクルモノがある。
僕の価値とは所詮こんなものであり、さして皆僕に興味がない。そんな考えが日に日に頭を支配していくのだ。
他人は他人である。当たり前のことを今更気づいた。ならば、人に対して僕からわざわざ好意的に積極的にかかわる必要がないというのが最近のスタンス。
現代においては信頼や愛なんてのも、目に見えないのをいいことに無責任に振りまくことができる。僕はそんな今の人間関係には馴染めそうにない。
信頼も愛情もすべては行動のみで証明して強く結びつくのがあるべき姿で、それを不義理にも裏切るなんてありえない。そんな人間関係が結びたい。
だから、古臭いDQNが羨ましい。
こんな重たく古臭い考えだから、僕には人望がないのだろうか。
自分に一切の自信がない。こんなに書いても僕自身がその考えに一貫性をもって生きてきたか自信がない。
だから、ちょっとでも文句言われたり、否定されるとなんだか全否定されてるみたいな気分になる。
こんな感じの姿勢なので、希望を抱くのではなくゆっくり諦めることにした。
生活の事も、人間関係もなにもかも諦められれば受け入れられるかもしれない後ろ向きな希望を抱くのが今の精一杯。

とはいえ、タバコが案外悪くないから何とかなるかもしれない。
これを公開したあとも一服しようと思う。